略記

 当宮は、聖武天皇(しようむてんのう)の御代、天平18年(746)越中国守・大伴宿禰家持卿(おおとものすくねやかもちきよう)が常に奈呉の浦の景勝を愛され、郷人に敬神の念を普及せしめんとの深慮により、豊前国宇佐八幡神を勧請して奈呉八幡宮(なごはちまんぐう)と称したのが創始といわれ、秋季例大祭には放生会が営まれ、永々として今日に伝えている。放生津の地名は、嘉暦(かりやく)3年(1328)これにより名付けられたといわれる。

                                 

 村上天皇(むらかみてんのう)の御代、應和3年(963)に、攝津国守・橘朝臣仲遠(たちばなのあそんなかとお)が、相殿に宗像の三女神を祀る。

 

 花園天皇(はなぞのてんのう)の御代、正和(しようわ)年間(1312~)に越中守護・名越時有(なごえのときあり)が社殿を造営し、神領八幡田を寄進した。南北朝時代、南朝方の武士を頼って宗良親王(むねよししんのう)が越中国放生津に数年間滞在された。室町時代、第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が、南朝方に味方した姫野一族の領地を没収し石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に寄進した。その領地に放生津湊が含まれていた。石清水八幡宮領になった放生津湊では、石清水八幡宮への年貢を納めるため、運上にかかる税を停止するよう将軍が命じた。

                                  

応仁の乱の時、越中守護代・神保長誠(じんぼながのぶ)が、畠山政長(はたけやままさなが)に味方し、武勇に秀でた猛将として活躍した。さらに長誠は、戦国時代の始め、明応(めいおう)の政変(1493年)によって幽閉された第10代将軍・足利義材(あしかがよしき)(義稙(よしたね))を6月29日の暴風の夜に救い出し、越中国放生津に連れ出した。義材は約5年間放生津を御座所として政務を執った。足利義材を慕って、京都から多くの公家や武士が放生津に来訪したという。その有様は、さながら小幕府の体裁をとっていたという。第11代将軍・足利義澄(あしかがぎずみ)と管領・細川政元(ほそかわまさもと)を中心とした京都の幕府と、足利義材と神保長誠を中心とした放生津の小幕府が対立する構図となった。神保氏は当宮への信仰が篤く、度々社参したと伝えられる。

 

                 

 永禄(えいろく)年間(1558~)神保長職(じんぼながもと)と上杉輝虎(うえすぎてるとら)が度々合戦し、その兵火にかかり灰燼に帰した。その後、神保長職は上杉輝虎と和睦し、長職が当宮を再興したと伝えられる。天正4年(1576)に、上杉輝虎が放生津で『十楽の市』を開いたことが知られている。天正9年(1581)には、神保長住が、八幡領町で、商業を保護する制札を出している。

 

 戦国時代末期天正13年(1585)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)と富山城主、佐々成政(さつさなりまさ)が対立し合戦となった。豊臣秀吉が勝利し、その際活躍した前田利長(まえだとしなが)は、秀吉から射水、砺波、婦負の3郡を併せた32万石の領地を与えられ、守山城の城主になった。守山城主、前田利長公は信仰篤く、天正年間(1585頃~)度々当宮を参拝され、「八幡宮」の題字を染筆奉納された。

 弘化(こうか)2年(1845)2月、放生津の大火にかかり、社殿、宝物等を消失した。

 現在の社殿は、文久(ぶんきゆう)3年(1863)7月竣工したもので、名棟梁・高瀬輔太郎(たかせすけたろう)の作で豪壮な流破風(ながれはふ)造りの代表傑作である。大鳥居に掲げられた神額は、放生津出身の知恩院第71世大僧正・萬誉顕道(まんよけんどう)上人の請いにより左大臣近衛忠熙(このえただひろ)卿が安政4年(1857)に揮毫したものである。拝殿左右の狛犬は、弘化3年(1846)矢野啓通(やのたかみち)が19歳の時、欅の寄木造りで制作した傑作である。