―八幡はん(様)は、海からやってこられる。その時、あいの風が吹く―

 この地方の言い伝えである。9月30日の霊迎式(たまむかえしき)では、海上から代々の祖神達(おやがみたち)を御船代に迎える。この神事が秋季例大祭の始まりである。祖霊を崇拝する信仰が基本にある。

 

この言い伝えは、『八幡宮の神様が、海からやってこられた』ことを物語っていると考えられる。当宮の由緒には、『天平18年(746)に、大伴宿禰家持が宇佐八幡神を勧請した』ことを記載している。大伴家系譜記には、『天平神護元年(765)に、大伴宿禰家持が奈呉八幡宮(なごはちまんぐう)を再興した』という記事がある。大伴家持の強い信仰に支えられ当宮が建立されたことが窺える。八幡神の勧請は、海上から行われた事が想像できる。奈呉の海人達は漁業を生業(なりわい)としているが、海上輸送にも長けていたと考えられる。海上から神様をお迎えした奈呉の海人達の記憶がこの伝承に反映していると考えられる。      

 八幡神は應神天皇(おうじんてんのう)である。八幡神については、諸説はあるが、少なくとも、大伴家持は、八幡神を應神天皇として信仰されたと考える。大伴家持が、八幡神を勧請される以前に、越前国守、多治比廣成(たじひのひろなり)が創祀した神社があったことが窺える。多治比廣成が創祀された神社の御祭神については知る術もない。しかし、多治比廣成が創祀した神社が鎮座していたことが、家持が八幡神を勧請する動機のひとつになったと想像できる。應神天皇は、多治比氏にとって祖神である。多治比氏は宣化天皇の4世の子孫から始まり、宣化天皇は応神天皇5世の子孫である継体天皇の第二皇子である。家持は、実母を通じて多治比氏とつながりがある。つまり、家持にとっても應神天皇は祖神ということになる。

        

 奈呉の海人達は、大海原より祖霊をお迎えした。大伴家持は、宇佐の地から、海人達の働きにより海上より八幡神(應神天皇)をお迎えした。奈呉の海人にとっても家持にとっても、海上からお迎えした祖先の神霊をお祀りしたことになる。

加賀藩に提出された貞享(じようきよう)2年(1685)の由来書によると、当宮は、『北条時政(ほうじようときまさ)が再興した』とある。当宮鎮座地から、鎌倉時代の土器片が見つかることから、鎌倉時代には当宮が現社地に鎮座していた証しとなり、北條時政が再興したという記事を裏付けていると考えられる。鎌倉時代以前は海岸線がもっと沖合にあり、当初の社殿はもっと海寄りにあり、海岸の浸食により現社地に遷されたと言う伝えがある。北条時政は、鎌倉幕府創成期の源頼朝政権を支えた中心人物であり、当宮中興の祖ということになる。当宮の文書には、『花園天皇(はなぞのてんのう)の御代、正和年間(1312~)越中守護、名越時有(なごえのときあり)が神領地を寄進し、社殿の造営を行った』ことが記されている。名越時有は、北条時政の孫、北條朝時の子孫である。朝時は名越姓を名乗り、その子孫は越中守護職を世襲した。武家法である御成敗式目の第一条に『第一条 神社を修理して祭りを大切にすること』という文言がある。名越氏は、祖先の信仰を受け継ぎ当宮を崇敬してきたと考えられる。           

 北条時政は、平氏の出身であり、平維時(たいらのこれとき)の子孫である。時政の父は、北条時方(ほうじようときかた)、母は、伊豆掾(いずのじよう)、伴為房(とものためふさ)の娘である。伴為房は関東に土着した大伴氏の子孫である云う。大伴家持の孫、陸奥介伴春宗(とものはるむね)の子孫という説と、応天門の変に連座し伊豆に配流になった大納言伴善男(とものよしお)の孫、伴善魚(とものよしな)の子孫という説がある。いずれにしても北条時政は、母方を通して大伴氏につながりをもつ。北条時政が大伴家持が創建した当宮を再興したことや、時政の子孫が、陸奥守を歴任していることから、伴春宗の子孫説を採りたい。

 平氏の祖は葛原親王(かずらはらしんのう)であり、父は桓武天皇(かんむてんのう)で、母は、多治比池守(たじひのいけもり)の曽孫多治比真宗(たじひのまむね)である。北条氏の遠祖は、多治比氏ともつながりがある。北条時政にとって、大伴氏と多治比氏はともに祖先ということになる。祖先の遺訓を守り神社を護持するという敬神崇祖の教えが、一本の筋として受け継がれてきたといえる。

桜揃い - 囃子方
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